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Feb 10
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村上隆

僕は、ずっとオタク・カルチャーというものを考え続けています。アメリカ版超消費型のポップ・カルチャーが六〇年代、七〇年代が作り上げてきたアメリカのオリジナルな文化だとしたら、オタク・カルチャーは、日本の作り上げたアメリカン・ポップカルチャーを引き継ぐ形での畸形化してきた、オリジナルの文化だといえると思います。

日本人の五〇年代生まれから六〇年代生まれをオタクの第一世代とすると、彼らが二十代を迎えた時にオタクは優秀なクリエイターとしてメディアの送り手に進出し、「コミケ」をはじめとするオタク文化が花開きました。この世代の活躍で日本には「オタク」文化が確立して、以後数十万の消費者を抱えこむ巨大なカルチャーに発達しました。消費社会に突入し、満ち足りた衣食住が戦後完成に至った時代に幼少期を送ることのできた、初めての世代。故に未来に対する夢においても、極めてポジティブな彩りを想像してきたであろう、EXPO’70万博的な前進思考によって推進してきたともいえます。

このオタク第一世代以降、七〇年代生まれ移行の第二次オタク世代たちは「上の世代の恩恵に与って」かなり受動的な、しかしその受動形態にはある種の狂気が含まれる程のおかしな存在になり、進化してきています。この動きはアメリカの「六〇年代ポップ文化」をクリエイトした世代と同列で比較することも可能なのではと思ったりします。ドラッグ&サイケデリック・カルチャーなどアメリカの「七〇年代」の空気にも似た「自分に気持ちいい」ことへの追求と重複する部分や、澱んだ、そしてアグレッシブに閉鎖的な傾向が見られます。サンフランシスコにサイケな人間が集まったように、秋葉原にオタク達がカードゲームを持ち込んだりしながら、集まっています。オタク達はゆるくそして反社会的な視点を持ちつつ、その総数は今も右肩上がりに膨張し続けています。

超消費型ポップ・カルチャーは、大衆消費社会の象徴として生み出されたもので、いわば何もかもが軽みを帯びていて、文化の重みが失われてしまうもの。まさにアメリカの発想であり、アメリカの文化そのものであり、それはいまだに世界を席巻しています。

オタク・カルチャーは、ポップ・カルチャーという「軽み」から「重さ」を奪い返す闘争だという、仮説を立ててみました。そのマニアックに裏打ちされた重さが、ポップカルチャーの「軽さ」を奪い取るための闘いである、と。

そもそもオタク人は、極めて日本的な人間だと思う。アメリカ的な大衆消費文化に入っていけなかったというか、いわゆるポップ・カルチャーにどうしても馴染めなかった人間たち、彼らがなぜか日本を批評的に解釈し、片寄った嗜好に突貫し、人生における強度を紡ぎ続けている。オタク・カルチャーは、ポップ・カルチャーに対する闘争、すなわちアメリカナイズからの脱出といえるかもしれません。

ところで、彼らオタクは、たけしさんの映画に関しては、すごい親近感を持っている。たけしさんは、あまりオタクがお好きではないようなので、納得していただけないかもしれないが、彼らは、たけしさんの映画を観ると「これはイケる」「これは食える」っていう、感じになっていると思います。

僕のオタク友だちも、たけしさんの映画を、全員、全部観ている。たけしさんは彼らに支持されることは、意図していないと思うが、このズレの根拠はどこにあるのでしょう。

なぜ彼らが親近感を持っているかというと、たけしさんの映画は、やっぱり、日本っていうものが見えるからではないかと思う。僕もなぜ、たけしさんの映画を好きかっていうと、まさにその辺だったりするんです。

——ビートたけし・村上隆『ツーアート』P.159〜162 より

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